GITI ALLIANCEの構想と出発点を確認する意味で、2008年11月30日に青山にある財団法人 電磁応用研究所で関係メンバーの座談会を持った。今後、GITI ALLIANCEの機関誌として『GITI INITIATIVE』を定期的に発行していく計画だが、創刊準備のための本号では、その座談会の内容を掲載する。
     
 
VOL.0 Session #001VOL.0 Session #002VOL.0 Session #003
     
     
情報通信と、コンピュータ。二つの世界に革命をもたらした富永英義と西和彦の二人が、それぞれの人生を大きく変えた出会いを語る。
     
 

富永 私が西さんにお会いしてもう15年くらいになりますか。初めてお会いしたとき、西さんはアスキーでパソコンネットなどをやっていらっしゃいましたね。
西 もう10数年前、郵政省の基盤促進センターの研究プロジェクトの頃です。いろんな新しいことをしていましたが、その頃のアスキーは企業の研究開発の限界という壁にぶつかっていました。技術開発を行う会社として社内に研究部門を作ったのですが、研究開発っていうのはその会社一つだけでは難しい。大学や研究所のような、研究を専門とする外部機関と提携をするしかないのだろうかという問題意識が出てきたときでした。
富永 その頃は私も血気盛んで、当時郵政省の中で業務系の人たちを相手に仕事をしていた頃です。当時は電電公社の民営化の議題で、NTTになったときに国が持つ株の配当金を何に使うかという大きな命題があり、電気通信分野の研究者育成に重点的に投資すべきだという話なんかが持ち上がっていましたね。
西 当時私は、日本興行銀行会長で経済同友会代表幹事だった中山素平さんが発起人となられた国際大学のGLOCOM(グローバルコミュニケーションセンター)という研究所に関っていました。GLOCOMは技術そのものというよりも、インターネットの社会学的な側面や、国の電気通信の政策論のような、「技術が社会に与えるインパクト」を研究する研究所です。そこで特別研究員を拝命して電電公社民営化の際の枠組みについてまとめたんですが、誰かに頼まれての答申とかではなくて、提言活動が大学の研究所としての役割だと考えたからでした。
当時日本では、電電公社の移動通信部門やシステム部門を分割する分割論が盛んでしたが、私は分割ではなく持ち株会社制度の形態が最も良い方法ではないかと提案しました。持株会社を作り、分割を迫られていた部門を子会社化して分離させながら分割統治させるというものです。持株会社制度はGHQによる財閥解体以降、日本では禁止されていたけれど諸外国では法律的に可能でしたから、持株会社制度を復活させる一つのいいチャンスではないかと主張したのです。これが日本経済新聞の記事になり、その記事がきっかけで持株会社制が解禁され、移動体通信部門のNTT DOCOMOとしての新スタートに繋がった。自分達の研究がそのまま活かされるなんて夢にも考えていませんでした。いいアイデアであれば、誰の発案であるかはあまり問題ではないから、これからも頑張っていろんなことをやるようにと中山さんに言われたのを覚えています。
富永 当時アスキーではいろんなことを提案されていましたよね。例えば、マイコン・パソコンのOSの話はどうなったのですか?
西 ある程度はうまくいきました。一番初めは16ビットのOSでMS-DOSといって、後にIBMに採用され現在のOSの元祖になりました。その次にMSXです。当時下り坂であった8ビットの最後の規格ですが、現在でもある種の標準になって使われています。
 
     
   
     
   
     
富永 西さんがそもそもコンピュータに興味を持つようになった最初のきっかけはどんなことだったのですか?
西 無線通信には昔からすごく興味があって、小学校4年生の時アマチュア無線の資格を取って当時の新聞にも載りました。その後、夏休みの自由研究でインターホンを作ったんです。当時、家にはインターホンが無くて、お客さんが来てベルが鳴ると「どちらさまですか」って玄関まで聴きに行くのが私の役目だったので作ってみたのですが、これが小学校の工作展で金賞をとり、その頃から有線通信にも興味をもちはじめました。
富永 その後、大学は早稲田の理工学部に入られましたね。在学中にアメリカに行き、ビル・ゲイツ氏に会った辺りのお話しを聞かせていただけますか。
西 機械工学科に入ったのですが、結局好きな科目が好きな分だけ嫌いな科目は絶対嫌だったので、だんだん授業に出なくなりました。興味のある分野なんて大学に入ってみないと判らないもので、1、2年生の頃、研究室に遊びに行って教授のお手伝いなんかをしているうちに自分の興味がはっきり解ってきたんです。ロボットをやっている加藤一郎先生のところに伺って、「ロボットを作りたいです」といったら先生に「君は何が出来るのか」と訊かれ、「コンピュータが出来ます」と答えたら、「ロボットを作りたいのはわかるけど、それならロボットを動かすコンピュータを作りなさい」と加藤先生はおっしゃった。このことが、自分がコンピュータを始める一番大きなオリエンテーションになったように思います。 当時、コンピュータはミニコンピュータ全盛の時代でしたが、非常に高価でした。1,000万円位して、とても手が届かなかった。ところがある日、研究室にインテルが作ったマイクロチップのサンプルが来たんです。50万円以上するものです。学生5人位でそれを囲みながら、もう少し安くなったら買えるなあなんて話をしているうちに、よせばいいのに開けて中を見てみようよという話になって。当時マイクロチップのパッケージはハンダづけされていたのを、「おい、ハンダごて持って来い」とか言ってハンダを溶かして開けてしまった。そうしたら、5ミリぐらいのチップがそこの中にあった。あとで大変怒られました。 富永 1個50万円がパアになりますからね。 西 開けるときも「もしパアになったら、1人10万円ずつか・・・」と腹をくくっていました。でも中のマイクロチップを見たときに直感的に「こんなの、50万円じゃない。100円だ。」と思いました。そして、もしもこれが沢山できて、あちこちに付けられたら色々なことができて、世の中が変わるのではないかということを、感動と共に感じました。それが私の原点だと思います。Computer Everywhereというか、現在、ユビキタスコンピューティングと言われているようなものの予感と感動を覚えた場所は、実は早稲田大学の理工学部の研究室だったんです。
   
     


富永英義(とみながひでよし)

早稲田大学理工学部教授、早稲田大学大学院国際情報通信研究科(GITS)所長。社団法人電子通信学会会長、財団法人電磁応用研究所理事長。
1964年早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了後、日本電信電話公社電気通信研究所に入社。1973年早稲田大学工学博士号取得、以降早稲田大学教授、英国エセックス大学客員教授、通信・放送機構早稲田リサーチセンター総括責任者、アジア情報通信基盤協議会(AIC)日本委員会会長、電子情報通信学会副会長、画像電子学会会長を歴任。専門は電子通信網工学、高知能映像情報ネットワークシステム。著書に「LAN」「コンピュータネットワークとプロトコル」など。電子通信学会稲田賞(1963)電子情報通信学会業績賞(1990)、画像電子学会論文賞(1990)ITU 協会賞(1991)、電子情報通信学会業績賞(1994)、エリクソンテレコミュニケーションアウォード(1998)電子情報通信学会功績賞(2004)受賞。

 
  富永 1個50万円がパアになりますからね。
西 開けるときも「もしパアになったら、1人10万円ずつか・・・」と腹をくくっていました。でも中のマイクロチップを見たときに直感的に「こんなの、50万円じゃない。100円だ。」と思いました。そして、もしもこれが沢山できて、あちこちに付けられたら色々なことができて、世の中が変わるのではないかということを、感動と共に感じました。それが私の原点だと思います。Computer Everywhereというか、現在、ユビキタスコンピューティングと言われているようなものの予感と感動を覚えた場所は、実は早稲田大学の理工学部の研究室だったんです。




富永 その後、ビル・ゲイツ氏との出会いにどのように繋がっていったのでしょうか。アスキーを作られたのはいつ頃ですか?
西 アスキーを作ったのは、大学1年生の時です。その後パソコンを作ることにして、パソコンの提案を書いてNECに持っていったところ、「それは面白いなあ」とアスキーにパソコンの設計を発注してくれて。
大学2年生のときに、試作品を作って持って行きました。当時売られていたNECのTK−80というコンピュータを改造してパソコンを作りってNECに売り込みに行ったのですが、大変面白そうだからこれにソフトを積まないかという話になりました。僕はそこで、マイクロソフトのソフトがいいと言ったんです。
理工キャンパス51号館の地下に理工学部図書館にあったエレクトロニクスという雑誌に、マイクロソフトがベーシックのインタープリターを作っているという記事が載っていて、それを見てマイクロソフトに電話を掛けました。「そちらのベーシックを改造したいがやってくれるか」っていう話をしたところ、ビル・ゲイツがたまたま電話に出て「解った」と。
「チケットを送るから日本に来てくれ」と言ったんですが、「忙しくてとても行けないからお前が来い」と言われ、僕が向こうに行きました。ソフトを日本に持ってきてTK‐80に積んだところあまりに良く載ってNECがびっくりして、キットで売るのは勿体無い。綺麗な箱に入れて売ろうと言ってできたのが、NECのPC8000という日本で最初に大ヒットしたパソコンです。マイクロソフトで、ビル・ゲイツと私と、NECのエンジニアの加藤さん、土岐さん、後藤さんという人達で作りました。その後NEC、日立、沖電気等の色々なパソコンをたくさん作り、後にIBMとのビジネスに繋がっていったんです。
富永 西さんは、マイクロソフトの副社長になられましたよね?
西 最初は営業部長でしたが、どんどんどんどんソフトを売ったら営業部長からいきなり副社長にしてもらい、次に取締役になりました。当時取締役はビル・ゲイツとポール・アレンと私の3人だけでした。次に新技術担当になったとき、ビル・ゲイツと喧嘩をしたんです。
理由は、当時インテルが出していたチップが毎回々々、あともうちょっとこうなれば良いのにという所ばかりだったので、ビル・ゲイツに「うちは半導体もやらなければいけない。インテルの半導体を使っていたら、うちのソフトがちゃんと動かない。」と言ったんです。そうしたら、「インテルと喧嘩するような事をするのはやめとけ」と。「いや、やるんだ」、「やめとけ」、「ほんなら辞めるわ」ということでマイクロソフトを辞め、ベンチャーで半導体の開発をしたのですが、ソフト会社がソフト会社だけでいいのかという命題だったと思います。ベンチャーで私と会津大学の嶋正利教授とで作ったチップは、今インテルと並び使われているAMDの64ビットのCPUの原点になりました。

     


富永 ちょうどその頃、私が西さんと付き合い始めた。ヤマハとあなたが半導体で初めて作ったLSIの写真を見せくれましたね。
西 ビデオチップですね。当時アメリカのビデオチップの標準はNAPLPS(North American Presentation Level Protocol)、日本はCAPTAIN(Character And Pattern Telephone Access Information Network System)で、日本とアメリカで標準のフォーマットが全く違うことに我々は本当に苦しめられました。そこで、両方のフォーマットで使えるチップを作ろうという話になりました。
富永 僕も当時郵政省の参与で、テレマティクスの標準化SG14の日本の代表だったから、NAPLIPSだとかCAPTAINの標準化の話も必要だなと考えていた頃です。
西 あのビデオチップを作った背景は、二つのフォーマットに共通するある重大な欠陥に気づいたことからです。両方ともグラフィックスは表示できるけれど、写真は表示できない。そこで、これで写真が表示できたら良いねという話になりました。写真を表示するには、色を増やせば良かった。次に、写真を1秒間に何枚も表示すればビデオが表示できることも判った。そしてビデオが表示できた時、次に必要なものはオーディオだ、ということで、新しいチップに動画とデジタルオーディオを入れるというシリコンのアーキテクチャをやろうということになりました。
富永 当時は漢字のROMさえ無い時代で、漢字の表示はセンターから図形をプロトコルで送っていて非常に非現実的でした。だから、技術的にはその後20年という時間が必要だったんですよね。当時僕も同じようなことを言っていたら、良くわからないとかそんなもの実現できないとか言われて、クビになりましたね(笑)
西 当時富永先生の研究室にお邪魔した時、研究室の過去の研究成果や論文集を「僕のところでこういう研究をしたんだよ」って見せていただいた中にものすごい僕が驚愕したものが2つありました。1つはローカルネットワークの研究というもので、よく見たらこれはイーサネットと同じではないか!と思いました。もう一つは磁気テープの材料で作った柔らかいディスク。フロッピーディスクと同じです。「イーサネット」と「フロッピーディスク」の発明がイーサネットとフロッピーディスクが登場する遥かに前に、全く誰の力も借りずお金もない早稲田の1研究室で、しかも卒論でなされていたという事に私は驚愕しました。
富永 電電公社から早稲田に来たとき、初めての学生の卒論にやらせたんですよ。
西 その時の富永先生の言葉を私は、はっきりと覚えています。「西君。お金を使わずに、頭を使うんだよ」って。
富永 そんなこと言ったかなあ(笑)
 

西 和彦(にしかずひこ)

早稲田大学在学中に株式会社アスキーを創業、日本発のパソコン専門雑誌「月刊アスキー」を出版した。経営の傍ら、マイクロソフト社ビル・ゲイツ氏らとともに、MS-DOS, Windowsの開発に従事、新技術担当副社長を務めた。その後、MPEGビデオの開発・標準化に参画した。近年は複数の大学にて研究・教育活動を行っている。またハイエンドオーディオの企画・開発も行っている。情報学博士。
     
     
 



富永 新しい大学の機構をこれから模索するに当たり、西さんと私の考えていることは非常によく似ています。私ができなかったことを西さんがやってくれるという思いを持って、今まで付き合ってきた部分があります。
実は私、大学2年生の時に学生の物理学会の会員になったんですよ。後藤英一という人が作ったパラメトロン計算機の講習会が行われた当時の武蔵野通研の研究室に入り込んでパラメトロン計算機の2周波メモリの配線を手伝ったことでした。配線の向きによって01が変りアンドアが作れるという論理設計を学部2年の時始めて、やはりあまり授業に出なくなり通研に入り浸りの日々でした。2、3年生の時、研究所で特許を書いたり研究レポートを書いたりした私の姿を見ていただいていた先生にひろわれて研究室に入りました。4年生の時、卒論のテーマとして江崎ダイオード発信現象による論理回路素子の特許を取り、通信学会の賞の対象にもなりました、でも受賞資格は学部卒以上だったので、修士に行ってから改めて発表し、稲田賞を最年少で受賞しました。
西 早稲田大学を卒業後、教授になられるまではどうされていたのですか。
富永 卒業後は電電公社に入りました。そこで日本で初めての電子交換機を作るDEXというプロジェクトに携わっていたとき、IBMの306というコンピュータが発表されたのですが、その設計要綱の中にドラムチャネルという部分があって、電子交換機のメモリをドラムチャネルでやろうという話になりました。昔の交換機は通話のスイッチが真ん中にあって、その周りに制御のリレー回路が並んでいたのですが、僕はドラムチャネルのメモリを真ん中に置いて、通話路を周りに置こうと提案したのです。そうしたら所長に呼び出されました。「交換機という30年間で累積時間が1時間しか故障できないインフラに、1ミリに何十ビットも記憶されるような不安定なものは使えない。大体メモリというのは目に見えなきゃいけない。リレーなんかちゃんと目に見えるじゃないか」と言うんです。
そこで、「メモリというのは大体4年で新しく取り換えるものだから、捨てるためのアーキテクチャをしないと電子交換は今後産業には結びつかない。私はメモリをどうやって捨てるかという研究をします」と口答えして、すごく怒られました。でも、図面を見た4社から「手伝いますから、とにかくやってください」と依頼があり、ドラムチャネルの件は私の意見が通った。交換機の中にCPUという概念がその時初めて入った。
その後、大学に戻って助教授をしているとき、文部省では東大と東北大の間で行う日本初の大学間データ通信の計画が出ていました。日立製の大型コンピュータを東大、日本電気製を東北大に置き、ゆくゆくは国立7大学にも置くというもので、近隣の大学も共同利用できるという名目だったけど、実際には東大までわざわざ行かなければ使えませんでした。当時私は大学の計算機室の委員をしていたので、じゃあ東大とうちの大学を結ぼうといってデータ通信に取り掛かっていたとき来たのが、筑波の学園都市の計画の話です。筑波に大型コンピュータを置き、データネットワークを引いていろいろな研究機関で共有しようということで、電電公社のデータ本部と組み文部省の予算の企画書を作るように言われ、私が幹事役で筑波のデータ通信の仕様書が作られました。文部省、通産省、郵政省等、役所と大学との間で仕事をする機会が増えたのは、その頃からでした。
     
     
     


西 先生は昨年までAIC協議会の委員長をされていましたね。
富永 大来佐武朗さんが、将来の日本の通信産業への需要を創出するために、インドと中国を中心としたアジア地域でソフトウエアのノウハウを教えていく必要があると提言されて、今から20年前にAIC協議会が外郭団体として発足しました。私はその発足時に実行委員長になったんです。大来さんはISDN交換機をアジア主要国に入れて現地の情報通信とアプリケーションの発展を促すことで、日本の産業に対する需要を創出しようと考えていました。郵政省も、ODAのお金を使い日本製の電子交換機をどんどん販売していくつもりでした。ところが発足4年後に、AICは梯子を外されてしまった形になった。ODAの政治的な問題で、他省庁から郵政省の力が外されてしまったのが理由です。大来さんもこの時に外されてしまいました。けれども対外的にはアジア諸国に既に約束してしまっていたので、フォーラムの形でその後20年間持たせたというのが経緯です。私はその時、このままでは日本はどうなるのだろうと思いました。電電公社の移行の話も、それまで通研で行われていた国のための研究を一体これから誰がやるのか。NTTになったら行動的にそれができるはずがないと思いました。このあたりは、先ほどの西さんのお話と非常に似ていますね。
西 以前KDDの役員が税関で捕まる不祥事がありましたね。私はKDDを日本の海外通信の戦略上に重要な会社だと思っていたけれど、あんな事件でたいへんになってしまった。KDDでああいうことが起こったなら、明日NTTでも起こるのかもしれない、そうしたら日本は大変なことになってしまうと危惧したんです。私 は、KDDもNTTも国益そのものだと思っていましたから、その時に初めて、NTTを温存し、NTTの国際競争力が今後も発揮できるような体制を作ることは日本の国益であり、日本人としてそれを守っていかなくてはいけないと思いました。
富永 担い手がいなくなってしまった、国のための研究をしていくことが、これからの大学が果たすべき役割であると思っています。


>> Session #002「これからの100年を考える大学」へつづく
 
     
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