富永 ここからは、産学協同事業と行政はどう在るのがよいかをテーマに話をしたいと思います。西さんも色々な思いが有って今日あると思いますので、自己紹介をしていただきながらこの問題についてお話しいただけますか。
西 理工学部でしたが、私も早稲田大です。授業については、きちんと出ていた授業と、全然出なかった授業とがありました。それから他学部の授業にも出ていました。大久保のキャンパスにいたのですが、僕歴史が好きなので、そこから文学部に出かけて参加していました。
熊谷 そうですか!
西 江戸時代の平賀源内っているでしょう。エレキテルの平賀源内の、新しいものをどういうふうに取り入れていったかということと、あとは生まれ育った四国の藩からあえて脱藩をして好きな道に進むという、そういうところに興味を持ったのです。実はその平賀源内とレオナルド・ダ・ビンチの姿が重なって、それで、ダ・ビンチと、平賀源内を比較しながらいろいろ考えたりしていました。その結論として、ダ・ビンチと平賀源内は比較してはいけないと、ダビンチの方がはるかに天才ということがわかったんです。
熊谷 なるほど!
西 あとはクラブでコンピューターのボードを作ったりとか、電気工学科の研究室で卒論を手伝ったりしていました。冨永先生の研究室は高根の花でね。うんと成績良くないと入れないところで、最初からあきらめていたところがありました。後になって通信科の先生のところに行きましたけれど。それで、早稲田にいるときからアスキーという会社を始めました。
最初は出版をやっていたのですが、出版だけでは物足りなくなってソフトを始めました。実はソフトというよりは、結局コンピューターを自分で設計したかったんです。NEC、日立、富士通といったところのコンピューターを企画して持っていったりしました。そのソフトがマイクロソフトに、、、とそういう感じでやっていました。僕は会社を運営している途中で、大学を辞めてしまったのです。だから早稲田中退。
熊谷 早稲田中退のほうがむしろ偉いみたいな感じがありますよね。
西 まあそれは昔の話でね。それが実は、今自分が大学に関係している非常に大きなきっかけになったんです。早稲田大学を中退して活躍している人が大勢いるので、世の中では学歴として通用しますが、国の審議会等の委員をしたことがあるんですけれど、そういうところで早稲田大学理工学部中退って書いた時に、事務局の方から、「西さんこれはね、中退は学歴にならないから、あなたの学歴ここには甲陽学院高等学校卒業って書いてください」って言われたんですよね。私はその時非常に情けないというか、恥ずかしいという気持ちになったのです。それが理由で、冨永先生のところに行って、早稲田に戻って卒業したいし大学院にも行きたいっていう話をしたんですけれど、今だったら例え大学を中退していても、大学に戻って大学院に行ったりすることができますが、当時はそういうのがなかったんです。
それで、事務室に行くと、「大学を卒業したことのない人が、大学院に入るなんて、十年はやい」と言われ、帰れと云われたんです。当時はそんな時代でした。
当時私は何をしていたかと言うと、MS-DOSというパソコンのOSを作っていました。
熊谷 ええ、すっかりお世話になりました。
西 マウスを作り、ワープロソフトでワードやエクセルを作っていて、一応マイクロソフトでも多くの部下もおり、コンピューターを引っ張っているという気持ちがあったわけなんですが、早稲田でそう言われてがっくりきてしまいました。それですごくがっかりしながらも、知り合いがいたので次は東工大に行ったんです。東工大の工学部長の木村先生が、「君ね、今頃大学院に行くなんてそんな勿体ない事するな」って。「君、今から教えたまえ」って言ってくださったのです。
いきなり行ったその日に、非常勤講師として1コマもらい、「博士を取るのは色々な手続きがあって大変だから、雑巾がけを10年やると思って10年間辞めずに講師をしなさい。10年たったら、博士がとれているだろう。」とその時言われました。結局僕は東工大の講師を10年間務めました。10年間ずっと、週1コマづつ教えたんです。その他、論文を書くとか、学会発表するだとか特許を出すといった事を10年やっている内に、博士号を取得しました。そうするとね。面白いんですよ、それまでは早稲田中退ということで、仕事でどんなに良い仕事をしても、相手にしてくれない人たちがいたけれど、博士号を取った瞬間に、あちらこちらから来ませんかという声がかかるようになり、結果MITに4年間行くことになったんですよ。
そういった経験を通して、大学の非合理的な、理屈に合わないところを見た気がしました。そこで私が思ったのは、理屈に合わない部分がたくさんあったら、それは何をしても変えられるものではないだろうって思ったんです。そうすると唯一残っている方法は一つしかなくて、それは自分で大学を作るしかないと。それでそのことをビル・ゲイツに話したら、資金的に協力をしましょうという約束をもらい、それで大学を作ることになったんです。
大学のベースは秋葉原にしようと思っていて、そこを拠点に様々な大学と提携をしたいと思っています。また、最初に作るのは大学院を考えていますが、4年制の大学の設立も考えており、その場合、大きなキャンパス・設備等を準備する必要があります。そういう意味では、いろんな地方自治体といい関係、コラボレーションができたらいいと思っています。実は、私、この千葉との関係もなくはなくて、まず早稲田に入る前に下総中山にいたんです。
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西 和彦(にし かずひこ)
早稲田大学在学中に株式会社アスキーを創業、日本発のパソコン専門雑誌「月刊アスキー」を出版した。経営の傍ら、マイクロソフト社ビル・ゲイツ氏らとともに、MS-DOS,
Windowsの開発に従事、新技術担当副社長を務めた。その後、MPEGビデオの開発・標準化に参画した。近年は複数の大学にて研究・教育活動を行っている。またハイエンドオーディオの企画・開発も行っている。情報学博士。 |