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2009年10月15日に改革男3人が日本の将来への世代継承と題して座談会を持った。自身について、日本の今後について語ったその内容をここに掲載する。
     
日本の将来への世代継承  
     
     
     

三人の出会い




 


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富永 英義
(とみなが ひでよし)

早稲田大学理工学部教授、早稲田大学大学院国際情報通信研究科(GITS)所長。社団法人電子通信学会会長、財団法人電磁応用研究所理事長。
1964年早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了後、日本電信電話公社電気通信研究所に入社。1973年早稲田大学工学博士号取得、以降早稲田大学教授、英国エセックス大学客員教授、通信・放送機構早稲田リサーチセンター総括責任者、アジア情報通信基盤協議会(AIC)日本委員会会長、電子情報通信学会副会長、画像電子学会会長を歴任。専門は電子通信網工学、高知能映像情報ネットワークシステム。著書に「LAN」「コンピュータネットワークとプロトコル」など。電子通信学会稲田賞(1963)電子情報通信学会業績賞(1990)、画像電子学会論文賞(1990)ITU 協会賞(1991)、電子情報通信学会業績賞(1994)、エリクソンテレコミュニケーションアウォード(1998)電子情報通信学会功績賞(2004)受賞。

 
 


富永 今日ここに集まった3人は約20才ずつ年齢が違います。熊谷さんのWebや記事を拝見して、現在の熊谷さんは私の若い頃とよく似ているという気がしています。

私の
40年前を思い出しますと、世の中をいろいろ改革しなくてはならない、時代が変わらなくてはならない、そのためには何をしたらよいかという思いで青春時代をすごしていた気がします。わたくしの学生時代に世界初の有人人工衛星が飛び、卒業の年には、太平洋をまたぐ衛星通信サービスが始まりました。その最初のテレビ生中継で飛び込んできたニュースがケネディ大統領暗殺事件でした。その後、大学院を出て電電公社の研究所に就職したのが東京オリンピックの年であり、所得倍増論の時代で日本経済が猛烈に成長した時代でした。

当時、科学技術の発達、特に日本の電話事業やコンピューター産業が世界のトップレベルに仲間入りするには、どうしたらいいか、日本がどう動いていくべきかという思いが強く私の中にありました。
その思いに沿って、様々な仕事をしてきました。学部生のころから電電公社の研究所に出入りしていましたので、10年間電電公社で研究していたことになります。

大学に戻って10年目に、西さんが私のところにお見えになりました。西さんの顔を見たら、なんとなく昔の自分が目の前にいるような気になり、西さんと組めば、自分ができなかったこと、やり残したことをやれる気持ちになったのです。それが今日まで続いている気がします。


西 そうですね。

富永 そして、あれから20年、私ができなかったことをやってくれる人間をずっと捜し続け、この3月に定年退職を迎えました。そこで、改めて西さんと共にやり残したことをやろうということになりました。

まず、気がかりなこと、心配なことというのは、国内の問題ももちろん大切ですが、アジアの中で、今の状態のまま放っておけば、いずれ日本は取り残され、溶けて流れてしまうのではないかということです。私にできることはICTを軸とした、産業振興ということに結びつけての人材育成です。

20年前に、日本のICT技術のことを考えると、電電公社の民営化後、やらなければいけないことがたくさんあるという思いがし、アジア圏における将来の電気通信技術を担う研究機関が必要だと強く感じたのです。世界の動向を見ても、通信事業者や製造業者が行う第一線の研究開発は人材育成と密着して、国の境界を越えて行わなければならないと思いました。そのためには大学の機関こそが、その責任を担う時代が来ると思ったのです。

いろいろな経緯がありましたが、1997年に早稲田大学の中にGITIを設立、2000年にはGITSという博士課程の独立大学院をつくりました。従来、大学院を新設する場合、まず学部があってその上に大学院を作る学年進行手順を取るのですが、私は、GITIという研究所に併設されたドクターコースの大学院を設立しました。当時の早大総長の奥島先生が、GITI/GITS設立に多大なご理解を示していただいたため、前例のない手順で研究所と大学院を設立することができたのです。しかし、実は早稲田の体質というのは日本国と良く似ていて、前例や伝統に立脚した組織でないと安定に機能しないのです。当初、大変うまくいっていたのですが、その後10年間をかけて、設立当時の意識が残念ながら薄れていってしまったように思えます。

結果、現在の早稲田GITIは、私がめざしたかったものとは少し違うものとなりました。早稲田大学内で既存の大学院・研究所と同様の趣旨の組織を作ろうとした訳ではありません。私がGITIを提唱したのは、これからの世の中を改革しながら、日本が10年、20年先の国際社会の中で主要な役割を持つ仕組みづくりをしたいと考えたからです。日本の中だけでなく中国、ベトナム・シンガポール・マレーシア・インド等も含めたアジアでのGITIコンソーシアムを設立し、大学と研究所が連携する仕組みを作ろうと言う考えです。そして現在、この考えの下、西さんと共にこの仕組みづくりを少なくとも5年以内に完成させたいとして尽力しています。今後5年のうちに、その後を引き継ぐ人材の育成、20年先30年先の人脈を作っていかなければいけないと考えています。

早稲田大学には所沢と本庄と横須賀YRPなどのリサーチパークに拠点があります。所沢キャンパスには人間科学部があり大学院、学部研究所があります。30年ほど前に所沢キャンバスを選定する過程で、当時の理事会で様々な動きがありました。その際、八王子や幕張などが候補地として議論されましたが、結果的に所沢が選択されました。当時の千葉県や国の関係者から、早稲田大学の施設を幕張にとのお誘いがありましたが、そのときの議論では将来の予測が不十分だった気がします。

幕張は結構地勢的にも、外国との連携をする場所としても良いと思います。その場所に、画期的なインターナショナルスクールが今年開校されましたね。外国の教育を受けた子供
が日本に帰ってくると、様々なカルチャーショック・ギャップを感じることがあり、いろいろな問題があると聞きます。それに対処すべくすばらしい理念を持ったインターナショナルスクールが誕生したと感じています。そしてその上にGITIという研究機関も含めて考えてみたらどうなのかなとも思っています。この思いもあり、少し千葉市のことを勉強してみたいと思い今日のインタビューとなりました。

それから、GITIは横須賀市とも関係があります。YRP(横須賀リサーチパーク)にGITIの分室があるのですが、こちらは国際的なICTの共同機関として、日本だけではなくて外国と連携する場所にしていきたいという思いがありましたが、行政、産業界、大学と、それぞれの思いが、残念ながらこの10年間うまくかみ合わなかったのです。

私の人生からするとあと20年で90歳、熊谷さんは50歳ですよね。そのときの熊谷さんは世界を相手に活躍しているに違いないと思います。その時代を想定して私の思いを熊谷さんに移しこみたいのです。これから5年か10年たってやろうとしていることをやってほしいと言う思いがあって、こういう企画を携えてきたのです。
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最年少市長の誕生    
     

富永 市長の早稲田大学在学中のことや、NTTに在籍されていたときのこと、千葉市議会議員になった経緯などをお聞かせ下さい

熊谷 そうですね。では順番にいきますと、早稲田大学在学中は大学には行っていましたけれど、授業にはほとんど顔を出しませんでした。

富永 僕と同じです(笑)

熊谷 私はそれを今思うと後悔しながらも感謝していますけれども。当時は、インターネットが勢いづいてきた時で、まだISDNの時代でしたよね。大学1年の終わり頃から、歴史が好きなので、歴史のホームページを自分で立ち上げて、朝から晩までやっていました。あの頃は、テレホーダイを利用していましたが、電話代が5万円程度かかってしまった時があり、バイト代を全部つぎ込んだりしたこともありました。その甲斐あってか、当時、歴史のサイトの中では一番有名な時代があったんですよ。私が歴史サイトを開設して一番良かったと思うことは、本当に歴史が好きな70歳台の方や主婦の方にはじまり研究者の方までもが集って、そこで議論をして、更には実際に30名程集まって一緒に史跡見学に行ったこともありました。そのお陰で各地の専門家の方々との繋がりができました。


富永
 24歳ぐらいの時ですか?

熊谷 いいえ、19歳・20歳頃だったと思います。今から12年程前ですね。もう夢中でやっていたあの時の経験が結構、いまの私の財産になっていますね。

富永 私が早稲田大学で、情報システムセンター長を務めた後、GITI設立準備室長になったのですが、それがちょうど13年前でしたかね。その頃、熊谷さんは学生として大学の情報システムを使っていたのですね。大学で学生にインターネットを自由に使ってもらえる環境を作るのに大変苦労しました。

熊谷
  そういう意味では早稲田大学って非常に自由な大学でしたから、サークル活動や、自分の趣味に真剣に没頭していました。他に家庭教師協会を自分で作ってみたりもしました。とにかく好き放題やって最後になんとか辻褄合わせて4年で卒業できたという感じですね。

就職については、その時私は、インターネットがこれから時代を変えるということを、既に確信していました。ただ、コンテンツ制作の部分に携わる気はありませんでした。フィールド作りをするのが自分の趣味であるので、歴史のホームページも私がコンテンツを書くというよりは、歴史好きが集まってワイワイ楽しめる、意見を言い合える場をプログラムで作って、後は皆さんでどうぞ、という感じでやっていました。同様の観点から、コンテンツ・インターネットビジネスができるようなプラットホームを作り、利用者が容易に参入できるようにすることが、自分のやりたいことだろうと思い、通信会社に入りました。しかし、実を言うと
NTTが大嫌いでした。というのも、やはりインターネットをやっていると、NTTがボトルネックになっているように見えたのです。そこでNTT改革しなければいけないと思い、NTTを倒す側で一生をかけたいと思い、KDDI、日本テレコムの面接を受けました。結果、日本テレコムへ行こうと思ったのですが、やはりそうは言いながら倒すNTTは一応受けておこうと思い、当時NTTで唯一採用を行っていたNTTコミュニケーションズを受けた結果、内定を頂きました。どうしようか、内定をもらってしまったということで、いろいろ悩んだのですが、敵情視察がてらNTTに入ってみれば、リーディングカンパニーからみたやり方も学べるのではないかと考え、NTTへ入社しました。入社後、150人いた同期の大部分が現場系に配属される中、私だけが企画部という中枢系の部署に配属されたのです。たまたま選ばれたことにより、経営会議の様子から、全部ではないですが、過去も現在も含めて、他部署のものも、ありとあらゆる取締役が見る資料が読めるわけですね。これは楽しいと思い、毎晩毎晩財務から何から何までひたすら資料を読みつくしましたね。そこで、NTTの目線からみた通信と言う考え方はまったく違うということに気がつきました。NTTの良い部分、悪い部分、それから苦しい部分、いろんなものがわかったわけです。面白い仕事もどんどん頂けたものですから、気がついたら28歳になっていました。


富永 私の研究室の出身者がNTTにいます。私は以前、熊谷さんが入社後の新人パーティでお目にかかっていますよ。
 
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熊谷 俊人(くまがい としひと)

現千葉市長。早稲田大学政治経済学部卒業。NTTコミュニケーションズ株式会社入社後、企画部門で事業統合・企業買収などのプロジェクトから部門間の調整まで幅広い業務を経験。
その後千葉市議会議員を経て、政令指定都市としては歴代最年少の31歳で千葉市長に就任。

     
     


 
  政治にかける人生の夢

熊谷
 中学時代から政治に興味があり、NTTに在籍していた当時ももちろん、政治にとても関心があったんです。NTTはやはり仕事は面白いのですが、所詮大企業、古い企業ですから、決定権を握るまでには、45歳位にならないといけないんですね。私も20年もここでやってるのかな、それまで情熱が持つのだろうかと考えることがありました。それまでの間に、結局保守的になってしまうのではないか、という自分の中の恐れと同居して仕事をしていましたね。
その時に、これからは政治において、地方行政の時代が来る、しかし、地方行政ではあきらかに人材が不足しており、ひどい状況であると聞きました。そこで、これは地方行政に行ったほうが、自分自身の潜在能力を早期に発揮できるのではないか、30歳を超えたら役職ももらうだろうし結婚もするだろうし、なかなか人生を変えるほどの決断をする勇気を持てないかもしれないという様に思い始めたのです。

ですから、29歳の統一地方選挙がある意味政治参加への最後の機会になるだろうと思った頃から、急にあせりが出始めました。
NTTの先輩であった田嶋要衆議院議員の事務所に行って話をしていた時に今千葉市議選向けに民主党が候補を公募しているのだが、どうかと言われました。実は私も千葉市には以前から関心がありました。県はもうなくなる、これはビジネスで言えばいわゆる中間卸であり、最終的には市であると思っていました。そして、市の中でも政令指定都市は別格で、いわゆる地方分権を一番先取りした未来の形がここにあるはずだと思い、政令指定都市の市議会議員をやりたいと思っていました。その中でも私は千葉にルーツのある人間ですので、千葉市で頑張りたいと思うようになりました。

富永 千葉がルーツなのですか?

熊谷 はい、私は浦安と神戸で育ちました。

しかも千葉市は政令指定都市でありながら、なぜか遅れていると言われており、潜在的な力を全然生かしきれていないと私はずっと思っていました。そこでこれはひとつのチャンス・運命じゃないかと思い、半月程、食べ物が通らないぐらい悩みましたけれど、最終的にはやってから後悔しようと決断し、NTTを辞めて、半年間程無職になりましたが、結果的には当選をさせていただきました。

始めてみたら、こんなに面白い仕事はないと実感しました。明らかに、市議会の半分以上は今の感性とは違う人たちがいて、我々の感性とは違うことをやっているわけです。毎日毎日が、突っ込みどころ満載といった状況でした。どこから直したらよいのかわからないぐらい直さなくてはいけないところが山積みだったのです。逆にそれが面白いと感じ、自分自身の存在意義をこんなに痛感したことは人生で無かったです。自分が言うことによって、僅かですが、時計の針が進んでいることを実感できるわけです。とても夢中になって仕事をしていましたが、民主主義は数ですので、残念ながら、長いこと大きい意味で方針を変えることはできず、歯がゆい思いをしていました。最初から、私はここの予算に反対し、変えなければいけないのだと言い続けてきましたが、千葉市が奈落の底に向かっている様な状況であっても、惰性でしか動けず、方向転換ができない箱物行政がずっと続いていたのです。更には、従来のやり方を全て継承して副市長が出馬するという話も出て、いつまで同じことをやっているんだ、絶対次の選挙で勝たなければ、千葉市は終わってしまうと思いました。千葉市は歴史上今まで政権交代したことが無く、業界団体全てどころか、在野のあらゆる団体を全て敵にまわして戦わなきゃいけないんですね。そういったこともあり、勇気のある人にはなかなか出会わなかったのです。

候補者が見つからないまま、タイムリミットも近づき、もうだめだと悩んでいたときに、実は私が説得されていたんですね。今思えば31歳という若さで市議会議員一期にもかかわらず、よく推して頂けたなと思います。民主党のいろんな県議会議員・市議会議員から、出たらどうだと声をかけて頂きましたが、初めはまさか私が、とお断りをしていました。

しかし、時間的にもう限界だというときに市長逮捕の一報があり、それを聞いたときに、これはもう出るしかないと腹をくくりました。千葉市のイメージが劣悪になった以上、同じような年齢、経歴の人を出したらだめだと思ったのです。また、千葉市のこの厳しい状況を理解している市議会議員じゃないとおそらく無理だろうし、12年レクチャーを受けて試運転をしてなどといってやっている暇は無く、就任したらもう即座に改革しなくてはいけない。そういう意味では中の様子を最低限理解し、選挙に勝てる人材は自分しかいないのではないかと思うようになりました。正直言って、この年齢でこのような立場になってしまったらプライベートはゼロですから、自分の人生設計についても悩みました。それからもっとも今痛感している点ですが、最悪なタイミングでの市長です。金は無いし、予算カットの嵐で、私はあらゆる市民から裏切られたとずっと言われ続けるかもしれないし、そこまでして私は千葉市のために人生ささげなければいけないのだろうか、という思いも、一時逡巡しました。

しかし、逆にこんなチャンスは滅多にもらえるものじゃないですから、やってみよう、と思い手を上げました。それで皆さんもバッとまとまり、結果、理想的な選挙をすることができました。私はいつか市長になろう、改革のためには市長になるしかないと思っていましたから、その頃思い描いていた選挙のやり方、選挙の構図が全て思い通りになって、これで勝てないわけが無いと思っていました。民主党も偶然、小沢さんから鳩山さんに代わり、流れも更によくなった中で勝たせて頂いたという感じです。


富永 市長になられて何ヶ月になりますか?

熊谷 4ヶ月になります。

富永 マスコミ流に言えばまだハネムーンですね。

熊谷 そうですね。メディアとはうまくやらせていただいていますので、良く報道していただいています。

富永 そうですね、メディア等の記事を見ていると、大変評判が良いようですね。
     
     
     
     
平賀源内が宿る西和彦

富永 ここからは、産学協同事業と行政はどう在るのがよいかをテーマに話をしたいと思います。西さんも色々な思いが有って今日あると思いますので、自己紹介をしていただきながらこの問題についてお話しいただけますか。

西 理工学部でしたが、私も早稲田大です。授業については、きちんと出ていた授業と、全然出なかった授業とがありました。それから他学部の授業にも出ていました。大久保のキャンパスにいたのですが、僕歴史が好きなので、そこから文学部に出かけて参加していました。

熊谷 そうですか!

西 江戸時代の平賀源内っているでしょう。エレキテルの平賀源内の、新しいものをどういうふうに取り入れていったかということと、あとは生まれ育った四国の藩からあえて脱藩をして好きな道に進むという、そういうところに興味を持ったのです。実はその平賀源内とレオナルド・ダ・ビンチの姿が重なって、それで、ダ・ビンチと、平賀源内を比較しながらいろいろ考えたりしていました。その結論として、ダ・ビンチと平賀源内は比較してはいけないと、ダビンチの方がはるかに天才ということがわかったんです。

熊谷 なるほど!

西 あとはクラブでコンピューターのボードを作ったりとか、電気工学科の研究室で卒論を手伝ったりしていました。冨永先生の研究室は高根の花でね。うんと成績良くないと入れないところで、最初からあきらめていたところがありました。後になって通信科の先生のところに行きましたけれど。それで、早稲田にいるときからアスキーという会社を始めました。
最初は出版をやっていたのですが、出版だけでは物足りなくなってソフトを始めました。実はソフトというよりは、結局コンピューターを自分で設計したかったんです。NEC、日立、富士通といったところのコンピューターを企画して持っていったりしました。そのソフトがマイクロソフトに、、、とそういう感じでやっていました。僕は会社を運営している途中で、大学を辞めてしまったのです。だから早稲田中退。

熊谷 早稲田中退のほうがむしろ偉いみたいな感じがありますよね。

西 まあそれは昔の話でね。それが実は、今自分が大学に関係している非常に大きなきっかけになったんです。早稲田大学を中退して活躍している人が大勢いるので、世の中では学歴として通用しますが、国の審議会等の委員をしたことがあるんですけれど、そういうところで早稲田大学理工学部中退って書いた時に、事務局の方から、「西さんこれはね、中退は学歴にならないから、あなたの学歴ここには甲陽学院高等学校卒業って書いてください」って言われたんですよね。私はその時非常に情けないというか、恥ずかしいという気持ちになったのです。それが理由で、冨永先生のところに行って、早稲田に戻って卒業したいし大学院にも行きたいっていう話をしたんですけれど、今だったら例え大学を中退していても、大学に戻って大学院に行ったりすることができますが、当時はそういうのがなかったんです。
それで、事務室に行くと、「大学を卒業したことのない人が、大学院に入るなんて、十年はやい」と言われ、帰れと云われたんです。当時はそんな時代でした。
当時私は何をしていたかと言うと、MS-DOSというパソコンのOSを作っていました。

熊谷 ええ、すっかりお世話になりました。


西 マウスを作り、ワープロソフトでワードやエクセルを作っていて、一応マイクロソフトでも多くの部下もおり、コンピューターを引っ張っているという気持ちがあったわけなんですが、早稲田でそう言われてがっくりきてしまいました。それですごくがっかりしながらも、知り合いがいたので次は東工大に行ったんです。東工大の工学部長の木村先生が、「君ね、今頃大学院に行くなんてそんな勿体ない事するな」って。「君、今から教えたまえ」って言ってくださったのです。

いきなり行ったその日に、非常勤講師として1コマもらい、「博士を取るのは色々な手続きがあって大変だから、雑巾がけを10年やると思って10年間辞めずに講師をしなさい。10年たったら、博士がとれているだろう。」とその時言われました。結局僕は東工大の講師を10年間務めました。10年間ずっと、週1コマづつ教えたんです。その他、論文を書くとか、学会発表するだとか特許を出すといった事を10年やっている内に、博士号を取得しました。そうするとね。面白いんですよ、それまでは早稲田中退ということで、仕事でどんなに良い仕事をしても、相手にしてくれない人たちがいたけれど、博士号を取った瞬間に、あちらこちらから来ませんかという声がかかるようになり、結果MITに4年間行くことになったんですよ。

そういった経験を通して、大学の非合理的な、理屈に合わないところを見た気がしました。そこで私が思ったのは、理屈に合わない部分がたくさんあったら、それは何をしても変えられるものではないだろうって思ったんです。そうすると唯一残っている方法は一つしかなくて、それは自分で大学を作るしかないと。それでそのことをビル・ゲイツに話したら、資金的に協力をしましょうという約束をもらい、それで大学を作ることになったんです。

大学のベースは秋葉原にしようと思っていて、そこを拠点に様々な大学と提携をしたいと思っています。また、最初に作るのは大学院を考えていますが、4年制の大学の設立も考えており、その場合、大きなキャンパス・設備等を準備する必要があります。そういう意味では、いろんな地方自治体といい関係、コラボレーションができたらいいと思っています。実は、私、この千葉との関係もなくはなくて、まず早稲田に入る前に下総中山にいたんです。

 

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西 和彦
(にし かずひこ)

早稲田大学在学中に株式会社アスキーを創業、日本発のパソコン専門雑誌「月刊アスキー」を出版した。経営の傍ら、マイクロソフト社ビル・ゲイツ氏らとともに、MS-DOS, Windowsの開発に従事、新技術担当副社長を務めた。その後、MPEGビデオの開発・標準化に参画した。近年は複数の大学にて研究・教育活動を行っている。またハイエンドオーディオの企画・開発も行っている。情報学博士。
     
     
photo   熊谷 ええ?!そこにいたことがあったんですか!?

西 はい。下総中山に一年間。そのあとは浦安、千葉といったあたりをうろうろしていました。それからあとは美浜区にある放送教育開発センターで客員教授をしていました。

熊谷 そうでしたか。

西 千葉によく来ていて思ったのが、千葉の雰囲気って東京とまた違うでしょう。非常にエネルギッシュな感じを受けました。

熊谷 そうですよね。

富永 私も千葉にはご縁があります。娘が美浜区に住んでいますし、兄も八千代台に住んでいて、千葉の50年間の変化を知っています。西さんの実家は、神戸なんですよ。

熊谷 私も子供の頃、神戸の須磨に住んでいましたよ。西さんのお宅はどちらですか?

西 須磨に私の実家の学校があるんです。須磨学園という、受験校なんですけれど。

熊谷 有名ですねえ。私はあの、白陵なんですけれども。凄く大変でした。

西 須磨学園がちょうど白陵超えたんです今年。

熊谷 ええ!本当ですか。

富永 その話、今度また改めてやりましょう。
     
     
産学協同事業と行政についての話

富永 産学協同事業と行政の役割が、市長がいまどのようにお考えになっているのか。長期的な考え方と、将来に対する考え方をお話し下さい。

熊谷 産学協同事業は本当に難しいと実感しています。市政要覧にありますように、二件のイノベーション事業をやっています。その一つは千葉大と連携した、イノベーションプラザです。もう一つは、新たに作った再開発ビルの中に、ビジネス支援センターというのを設けて、その中にインキュベーションの部屋を用意して、起業の支援をしています。

私も正直、これがどこまでの効果を出すのかというのが正直読めないんですね。効果測定もしにくい。現実に税金を納めている企業はそこから出ているかっていうと、まあ将来楽しみな企業はいくつかありますけれども、まだ花開いているわけじゃなく、またそういう企業は我々がインキュベーション施設を作らなければ発生しなかったものなのかどうなのか。実際こういう施設が必要なのかどうなのかという思いも私としてはあります。

これはもう少し長期的に効果を見ていく必要があるものですけれども、私は何より必要なのは人材であると思っています。シリコンバレーだって結局、別に企業誘致で成功したわけではなくて、あそこに大学があって、優秀な人材がいて、そして、その優れた人材を求めて、そこに社を構えたほうが良いということになり、企業が集まり地域が発展したというのが最終的な理由だと思っています。

同様に、千葉市の中で学生が
ITだとか、未来的な分野・科学的な分野に長けた人材が輩出されるところだというようになれば、自然といい人材が集まってくるんじゃないかと、私は思っています。現在、『科学の都』構想というのを打ち出していますが、理科教育に焦点を当てて、とにかく科学・技術分野の優秀な人材をこの千葉市からどんどんどんどん排出される形にしたいと思っています。そうすることで最終的に企業誘致への一つの切り札にもなり、またベンチャーも育つ基盤が作れるのではないかと思っています。その一環として千葉大とも連携していく必要がある、私としては、そういう思いがありますね。

富永 千葉と東京の関係はニュージャージーとニューヨークの関係と似ていますね。西さんから、新しい大学を作る話がありました。国や地元の行政との連携についてどんな風に考えていますか?

西 我々がそれをしてくれというお願いをしているという訳ではないのですが、大学を作ろうという時にその産・官・学・というか、そのトライアングルで何ができるのか、最初に考えるのは、何処に作ろうということです。そこで私は最初の切り口は、秋葉原だと思ったのです。

熊谷 そうですね、秋葉原はいろいろな意味で面白いですよね。
   

西
 でも、秋葉原には4年制の大学は無理なのです。圧倒的に場所が無いのです。大学院、修士や博士ならやっていけると思います。四年制の大学のキャンパスは、東京近郊のどこかになりますね。そうするといろいろな市からの話を伺うと千葉があって、埼玉があって、多摩があって、川崎があって・・・っていうことになってきます。
私が考える学校法人は、土地を買う資金まで用意するつもりはないので、100年貸していただけるんだったらそれでも良いといった、イメージなんですね。
私、以前に福島県にある会津大学の学長選挙に出たことがあるのです。
その時に、いろいろ研究したんですが、学生一人当たり年間200万使うんです。200万お金を使うということは、会津を例に言うと、地域にとって約8倍もの経済効果があることになります。それから三重県の津市で特別顧問をしていたことがあります。津市に私立の短期大学があり、それを4年制の大学にしようという話があり、いろいろな企画を立てたりしました。これは結局実行・実現しなかったんですが、やはり8倍から10倍位の経済効果があるんですよ。
そうすると、1000人そこに学生が住むといくらになると思いますか?1000人ということは1学年で250人ということになり、規模としてはそんなに大きな大学とは言えないです。大学の経営ラインは2000人です。2000人いたら、小規模な大学がペイをする額になりますね。

富永 トータルで2000人だから、1学年、大体4〜500人ということですね。

西 どの首長さんも考えることですが、きちんとした大学を誘致できたら、2000×200で、40億。40億かける8倍で、トータル320。400億円位の経済効果が、大学一つで出るという、そういうことなんですよね。

富永 ところで、リサーチパーク構想というのが大体20年ぐらい前にブームになりました。
日本中あちこちにリサーチパークが作られました。結果的には、箱物行政は今になって、ほとんどダメになっており、そこに大学を誘致するという動きがありますね。そこの市長さんが、その地域の人にとって、大学を作ることは良いことづくめ、みたいな事を言って選挙活動していますが、少子化現象で学生数が減っていって、大学の経営が難しくなり、今は冬の時代になっています。西さんが私のところに秋葉大学の話を持ってきたときに。。。。

西 最初は4年制だったんです。

富永 そう、大学作るのなんかやめなさいよって言いました。

西 そうでした。

富永 都心でね。たとえばニューヨークにあるコロンビア大学とかね。それから研究事業やビジネスに直結した大学や、プロフィットの裏づけがある形の大学であればいいのですがね。作るのなら、これからの新しい大学を作りましょうと。やはり少子化で学生の数が減少していく日本が、アジア各国と手を結ぶには、やはり研究開発から産業との結びつきに、真剣になってやれる人間が手を結べる場所が必要であると思うのでそれを一緒にやろうと。

西 土地代がタダであれば、なんとかペイする。土地代を払うとですとね、学生からお金を頂いて、学校経営で安泰化しなきゃいけない。これからの大学経営は学生からもらうお金に頼るのではなく、社会に貢献した実務の経費として頂くお金でする必要性を持つと考える必要があります。

富永 大学の発信するコンテンツがアジアをリードするトップレベルになる必要があります。それが上海や北京とも結びついて、、、まあそんなことを一緒にやろうよというように考えているんですけれどね。

西 実は日本の首長さんて、そういう話はみんな苦手なんだよね。

熊谷 そうなんですか?

富永 だいたい、今までの首長さんは霞が関のお仕着せした話の金太郎アメみたいな行政の答えが返ってくるわけですよ。

熊谷 うふふ。そうですね。

富永 ほとんどみんな尻込みしちゃう。しかし、ブームになったリサーチパークだと、馬鹿の一つ覚えみたいな構想でしかも税金の無駄遣いになっている。

熊谷 そういう風にしてできたリサーチパークは、大体場所が遠く、また便が悪いんですよね。

富永 全く無駄なことをやってると思います。ただ、段々それをみんな解ってきたからね。ある意味では、いい時代だったと思いますよ。

熊谷 私は正直言って、千葉市ぐらいがまあ限界だと思いますよね。

西 千葉のこのいわゆる埋め立ての場所に、どういうプロダクトミックスをするか、どういうカンパニーミックスをするかっていうか。それですよね。そこに何を並べるかっていう。

 
     

日本の国際化についての話

富永
 日本の国際化をテーマに話をしたいと思います。国際化というのは日本独特の言葉なんです。日本人の持っている一つの考え方ですね。それから市民の理解もかなり、ギャップがあるんですね。人材育成の中で、国際人に育てるにはどうしたらよいか。内需だけで産業が完結している日本では国際化という言葉に独特な意味があります。産業界の人は国際化とは国の外と組むことを意味していますね。その結果、ドーナツ現象化しちゃったら身も蓋もないなどと心配する。だから、何をやったら良いか。それからどういう人材を育てたらよいか。どういう風にやったら良いかっていう問題で、日本の指導者、経営者は堂々巡りしています。私共の持っている一つの命題なんだけど、この国際化の問題に対してどういう風にしたらよいですかね。まず、千葉はそういうことに対して、市民のみなさんの感覚はどのような感じですか?

熊谷 千葉市にとって、私はもう一度国際化を見直さなければならないと思っています。千葉市は幕張新都心があり、成田空港から一番近い政令指定都市です。そういった意味で考えると、本来はこの首都圏の中で最も国際化された大都市でなければならない。幕張新都心には確かにメッセもあり、そういう意味ではなっていますけれど、では住民意識については、行政の中で本当に真の国際化がなされているかというと、むしろ後退をしてきているんです。幕張での熱が冷めていくに従って、ジワジワと国際化の波がしぼんでいっている状況です。ですから、インターナショナルスクールを設立したりして、幕張メッセがある美浜区という一部のエリアにおいては国際化、世界を意識した教育なりが行われていますけれど、それ以外のエリアではなかなか難しいんですよね。

富永 インターナショナルスクールの生徒さん達は、帰国子女の方達が通っている訳でしょう?

熊谷 はい、帰国子女です。それから幕張の外資系企業に勤務している外国人の子供たち。そして、そういった環境とは全く無縁なのですがインターナショナルスクールに通わせたいという教育熱心な日本の親を持つ子供たちです。

富永 かなり遠くから移住してきている方もいらっしゃるんじゃないですか?

熊谷 そうです。インターナショナルスクールに通わせるために美浜エリアに引っ越してきている人はたくさんいらっしゃいますよ。

富永 お父さんが単身赴任をされていたりとか。

熊谷 そうです、そういうケースもあります。

富永 そういうケースがあるということは、この学校が子の教育にかなりのインパクトを与えているということですね。

熊谷 私も大いに期待していますね。

富永 私はあの学校の延長線上に、最終的にはICTの大学院を、大学大学院、それから研究機関というのが有ってもいいかなあと思ったんですよ。
そういう、大学院までアメリカ・ヨーロッパ・アジアと同じマインドで教育・研究ができる小学校から大学院までの仕組みがあってよい気がします。日本の文部省の規制から外れるかもしれませんが、特区として扱うなら可能な気がします。研究都市をつくり、レベルの高い研究人材を日本人だけじゃなくて、世界中から集められるといいなあと思っているんですけれどね。

熊谷 私も、そういう意味で科学の都をやっています。ここには放射線医学総合研究所という、世界でも冠たる放射線医療の研究所があったり、他にも意外と優秀な施設があるんですね。ご存知の通りNASAのセンターがあるヒューストンと千葉市は姉妹都市を結んでいます。私はもう少し姉妹都市というものを、単なる儀礼的なものではなく、戦略的なものに切り替えるべきだと思っています。

富永・西 そうですね。

熊谷 千葉市は天津とも友好都市提携をしており、先人が素晴らしい提携をしてくれたと思っています。このヒューストンと天津との関係を、我々はもっと街づくりの中で生かしていくべきだと思っています。


富永 かずさアカデミアパークがありますよね。どういった施設ですか?

熊谷 千葉県が運営している施設です。昔のリサーチパーク構想と同じ趣旨で作られたものです。やはり遠いのです。一時期トレンドであったことは間違いないのですが。

富永 そういった作りかたから脱却しないとだめなんですよね。

西 ここで一番成功している学校の誘致は、渋谷学園ですね。

熊谷 そうですね。美浜区のこのエリアは教育水準がとても高いです。そういった意識の高い人たちがまた住む街です。

西 すごいですよね。東大に30人ぐらい行くそうです。

熊谷 ものすごい数の生徒が行っていますよ。こちらは、千葉が誇る超・優良進学校ですね。

富永 今日の話は、市長の意気込みもお伺いでき、大変愉しいお話ができたと思います。これから先々、長期的に夢のあるしくみを作っていただきたいと思います。私はだいぶ年寄りになりましたけれども、若い頃の思いがまだ不完全燃焼していますからね。あまり古い話を押し付けるつもりはないのですが、過去のうまくいかなかった話を、同じことを繰り返さないために、ある程度話さなくてはいけないかなと思っています。でも世の中というのは、大体15年ぐらいの周期で繰り返しているとつくづく思います。クリントンのNIIの話が丁度16年前です。今回のグリーンニューディールと似たようなことが起きてましたよね。
熊谷さんの十数年先のことをある程度、予測しながら、あるいは夢を見ながら、できるだけ応援していきたいと思います。応援団が集まるとよいと思いますね。それから、早稲田という軸にこだわるわけではないのですが、ネームバリューというのは大きいですよね。

西 それは大きいですよ。

富永 それはやはり利用しなければいけないし、早稲田の出身ですから早稲田と連携するっていうのは自然の姿だと思うんです。来年3月の13日に、早稲田の井深記念ホールで、シンポジウムを開こうと思っています。大分先なのですが、これから横須賀市長にも連絡をとってみますので、横須賀市長と熊谷さんとで機会があればぜひ出ていただきたいです。

西 横須賀は、面白いですよね。米軍基地がずっとあるため、その文化があったり。

富永 YRPという総務省が絡んでいる研究施設やドコモの研究所もあります。だいぶ空家があるんです。だから、そういう行政の立場でも今大変厳しい時になっているんですね。

熊谷 正直言って、余程のことが無い限り、再開発は成功しない時代ですね。とにかく、行政が税金突っ込んで町を興すというのは余程の事でないと成立しないです。

西 ですから、今あるものをペンキぬり替えて、テナント入れ変えてどうするかと言ったことをまず考えるのが妥当でしょうね。

熊谷 そうです。十分にやれることは、いくらでもあると思いますけれどね、私は。

富永 本日は有意義なお話をどうもありがとうございました。

熊谷 私も、何かきっかけと言いますか、考えるヒントをいただいたように思います。

富永 今日はその入口ということで、また日を改めて続きをお話しできればいいですね。ありがとうございました。
 
   
   
 
 
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